SLEEPYDOG / REVIEW / TOKIKAKE
はじめに
以下の「見えない先を走っていこう」と題する評論は、2006年夏に公開された細田守監督のアニメ映画「時をかける少女」を、観賞直後に近い時点で書いた評論です。
 執筆当時、「時をかける少女」の素晴らしさに興奮し、しかしその(私が中核と思う)魅力を観客が体験するためには事前に魅力を伝えては意味がないというジレンマに悩みつつ、結局は優れた映画を観た幸福感の勢いにのって書いてしまいました。
 そのような半ば自己満足的な代物であったにも関わらず、この評論を幾人かの方が幾つかの場所で紹介してくださいました。大変ありがたいことだと恐縮しながら感謝しております。
 2006年の夏というひとつの季節が終わった今、本論の持つ意味は風化し、陳腐化していくことを免れえません。しかし、映画を観た当時の自身の熱狂は残響のように現れているように感じます。
 願わくば、この評論が「時をかける少女」をご覧になり心動かされた方と、何かを共有できるものでありますことを。そのような祈りを込めて、今後もそのままの形で公開するものです。

(2006.09.16 東目堂)

細田守監督映画「時をかける少女」 見えない先を走っていこう
2006年7月15日。
この日のテアトル新宿を皮切りに公開が始まった細田守監督のアニメ映画「時をかける少女」が好評です。
 私見ではこの映画、細田守自身の経歴においても大きな意味をもつと目されます。東映からスタジオジブリへの出向、しかし「ハウルの動く城」の監督を降板して東映に戻る…細田氏のこの出来事以来、彼の動向を気にかけてきたファンにとって本映画は嬉しい驚きに満ちた作品となっている筈です。

 観客に「これは間違いなく細田だ」と感じられる、彼らしい技巧が随所に張り巡らされながらも、全体の印象は従来の“研ぎ澄まされ閉じられた完成品”とは大きく異なっています。この映画は宣伝ポスターの少女の如くに、映画内で語られる物語のその先へと駆けていく開放感に溢れている。
 「野性時代」や「WEBアニメスタイル」での細田監督自身のインタビューで言及されているように、この映画は“映画であること”に鋭敏です。劇場でこの映画を観る者に何かを差し出してくる。そういう原体験を観客にもたらします。
 本コラムは、そんな細田映画の決定的瞬間に立ち会えた喜びを原動力とし、構造や演出に言及することによって制作者たちへの敬意を表することを意図します。
 この上なくネタバレ必至ですので、まだ映画を観ていないという方はまず映画をご覧になってから読まれることを推奨します。まあ、このコラムは読まなくてもいいから映画は観てください。 

(2006.07.17公開、07.21加筆修正  東目堂)

物語の概要

 では映画の概要を、公式サイト から引用します(手抜き)。
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 1965年の原作発表以来、幾度となく実写映像化されてきた「時をかける少女」(著:筒井康隆 角川文庫刊)。本作はその初のアニメーション化となります。
 主人公は紺野真琴17才。2006年を生きる東京の女子高校生。
 あるきっかけから「今」から過去に遡ってやり直せる力、タイムリープ能力を持ってしまった紺野真琴は、ひとたびその使い方を覚えると、何の躊躇も無く日常の些細な不満や欲望に費やしてしまいます。
 大好きなものはいくらでも食べられるし、いやなトラブルも即解決! ばら色の日々のはずだったのですが…。
 紺野真琴には仲のいい男のクラスメートが二人います。ひとりは幼なじみの津田功介。もうひとりは間宮千昭。
 真琴は同級の女子とつるむより、3人で野球の真似事をやるのが放課後の日課です。交際というのでもない、のんびりとしたのんきな関係。やがてそれぞれの進路を決めなければならない3年生になる前の、留保された優しい時間。
 そんな3人の関係に、ある変化が訪れます。
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 タイムリープによって繰り返される時間の起点となるのは2006年7月13日。この観客との同時代性が、本作の特徴を大きく決定づけています。この日付に着目して、物語の構造を以下に示していきましょう。


2006年7月13日―1回目―

【ここから始まる、駆け出しのスタートライン】
 この最初の7月13日は、今後のあらゆる繰り返し構造の起点となるスタート地点です。
 真琴の「バカ」さを観客に伝えるとともに、この物語に関わる主要な登場人物の性格とそれぞれの人間関係を紹介しています。まずはこの1日の日常で過不足なく必要な描写をこなす手際のよさに注目してください。  そしてタイムリープの発現のきっかけとなる午後4時の踏切事故
 ポスターのモチーフともなっている坂で、真琴の自転車のブレーキが効かなくなり、彼女はそのままやってくる電車に突っ込んでしまいます。
 死ぬ―と思った瞬間、彼女はほんの少し前の時間に戻って、自転車から落ちて道に転げていました。
 不可解な現象で命拾いした真琴は、その足で博物館で絵画の修復の仕事をしている叔母さんを訪れます。「魔女おばさん」の和子は、それがタイムリープというものであり、かつて自身もその能力をもっていたと語ります(=原作の主人公)。彼女は後述するように、この物語に登場する人物の中で最も発言が首尾一貫しておらず、それが時間の流れを超越した彼女の魔女性を構築している―ひいては真琴との違いが強調されることになります。


2006年7月13日―2回目―

【やり直しの時間を満喫する真琴】
 タイムリープで7月13日をやり直す真琴は、1回目に起こした(踏切事故を含む)あらゆる失敗を回避します。
 真琴のタイムリープは、走って跳ぶことで発生します。そして過去のある時点に戻った彼女は必ず豪快に転がって何かにぶつかります。
 ゴロゴロ・ゴツン・ゴロゴロ・ガツン。それでも本人はハッピーで、バットを肩に担いで夕陽に向かって高笑い。バカです。
 タイムリープで幸せを満喫する真琴に対し、叔母の和子はその幸せの影に誰かが悲しみを負っている可能性を示唆する(発言A)。この魔女の予言通り、事態は少しずつ良くない方向に転がっていきます。  千昭に告白されて戸惑った真琴の、ボカーンと開いた口が印象的です。ポカーンというよりボカーン。3人の「のんきな関係」がずっと続くと思っていた真琴はこの状況を受け止められず、タイムリープで告白そのものをなかったことにしようとします。
 何回もタイムリープを繰り返した結果、さっきの二又の道で真琴は千昭とは別の道を帰り、千昭をひとりで帰す。このとき、二又に別れる標識とその下の「ここから」という表示が画面に大きく映し出されます。


【重複しながらずれていく世界】
 「ここから」、真琴はある大きなルートに入った。それは何回やり直そうとも最後に悲しい結末の待っているルートなのです。  千昭の告白をなかったことにしてしまった真琴に対し、和子は千昭と付き合えばいいのに・うまくいかなかったらタイムリープすればいいと発言します(発言B)。しかし千昭が友梨と付き合い始め、真琴が功介と2人でいることが多くなると今度は功介と付き合うんだと思ってたと述懐する(発言C)。
 ここまでA→B→Cと見ていくと、和子の発言はタイムリープをすることの是非や真琴の付き合うべき相手に対する意見をころころと変えていることが分かります。それぞれの和子は異なる時間の流れに立っていて、だから発言が変わるのだとも考えることはできますが、彼女の不徹底さは物語の中でとりわけ目立つ。
 何故なら、真琴のタイムリープによって時間の流れはずらされていく中で、にも関わらず周囲の人は同じ発言や行動を繰り返すからです。
 そうこうしているうちに和子の絵の修復が完了します(本編の中で最も先の時点であることを明示)。真琴は展示されたその絵を見て、何かを感じる。和子の言葉によれば、この絵は戦争と飢饉で世界が無くなろうとしていたときに描かれた絵だといいます。


2006年7月13日―3回目―

【取り返しのつかないこと】
 真琴は果穂の功介への告白を成功させるためにタイムリープを繰り返し、そのたびに失敗して「もっと根本的なところから」変えなければと再び7月13日に戻ってきました。
 ここでの真琴は2回目とは違い、むしろ1回目と同じように寝坊して自転車で慌てて学校に行き、テストもまったく出来ない。唯一変えるのは男子生徒にぶつかる場面だけで、そこで捻挫した果穂を功介は自分の親のやっている病院に連れて行くことになります。
 ようやく成功したかと安堵する真琴。そこでふと、タイムリープ能力の発端となった理科実験室であのとき感じた気配は誰だったのかと疑問に思う。
 理科実験室で彼女が先回りして潜んでいると、そこに現れたのは友梨(千昭と付き合う前の)でした。
 ここに来る途中で誰かに会わなかったかと真琴は問い、友梨がそれに答える前に、彼女は功介が自分の自転車を使って帰っていったことを知り走り出します。宙に浮く友梨の答え。

「…千昭くんだよ」
 
 真琴はあの踏切に続く坂で千昭からの電話を受け、彼にタイムリープしていることを指摘されて、思わず最後の1回のタイムリープをしてしまいます。 
 能力を使い果たした真琴は、目の前で起こる功介と果穂の午後4時の踏切事故を止められない。
 けれども時間は止まります。止めたのは千昭でした。

「俺、未来から来たって言ったら、笑う?」


【1回きりのラストチャンス】  
 時が静止した世界。ここで真琴(および観客)に対し、千昭とタイムリープ能力にまつわる謎明かしがなされます。   真琴にタイムリープのことを知られてしまったため、千昭はみんなの前から姿を消さなければいけないと告げます。誰にも言わないという真琴、しかし千昭は消える。絵を見ることもないままに。
 動き出した時間。翌日、千昭は学校では急に退学したことになっていて、功介と真琴は複雑な心境をそれぞれに抱えます。
 やり直しのきかない時の中で、真琴は走って、でももう跳べない。
 和子は言います。本当は真琴は2人のどちらともどうにもならずに卒業して、全然違う人と付き合うのだろうと思っていた(発言D)。でもそうじゃなかった。

「あなたは私とは違うタイプでしょう。
 待ち合わせに遅れてきた人がいたら、走って迎えに行くでしょう」
 

 夜、夕食も西瓜も食べずに部屋に閉じこもって「失恋」と家族に揶揄されている真琴。彼女はふと自らの腕の数字が変わっていることに気づきます。「00」だった筈の数字が「01」になっている。
 真琴はある法則性を悟ります。自分が起こしたタイムリープでは自分の時間は戻らないが、千昭の起こしたタイムリープで真琴の時間は戻った。なら、真琴がタイムリープすれば千昭の時間も戻る―
 家を飛び出し、あの坂を走っていく真琴。跳び上がって、彼女の身体が夜の町並みに吸い込まれていきます。
 最後のタイムリープ。
 時をかける真琴に、3人でいた時間がフラッシュバックする。
 
 

2006年7月13日―4回目―

【ラスト・ロング・ラン】
 真琴が戻ってきたのは7月13日の理科実験室でした。装置を拾い上げた彼女は、友梨に千昭が好きだと告げると、彼を追いかけ走っていきます。
 友梨は静かに微笑んで言う。

「真琴… Time waits for no one. 」

 真琴は途中、功介に千昭の行き先を尋ね、去り際に、果穂たちを野球に誘え・自分の自転車を使うんだったら5000円払えと言い捨てていきます。

 最後のロングラン。タイムリープではないただの走り、真琴の耳障りなほどの呼吸が執拗に続き観客の胸を締めつけます。
 そうして自転車を引いていた千昭に追いつくと、黙って装置を彼に見せます。

「お前… どこから来た?」
「未来から」


 川辺で距離を置いて座り、話す真琴と千昭。真琴はあの絵をどうにかして千昭の時代でも見られるようにすると言います。1回目の7月13日では真琴の跳躍を目撃していた子どもたちが、今は2人をカップルだとはやしたてます。
 千昭が子どもたちを追い払い、2人は川辺を歩く。2回目の7月13日の流れでは彼らは自転車に乗っていましたが、今は彼らを自転車に乗った男女が追い越します。 
 そして真琴は千昭の告白を覚悟して構えていますが、千昭の口から出てくるのは「身体に気をつけろ」といった、なんともふにゃふにゃな言葉だけ。
 さっさと元の時代に戻れと千昭を突っ返して背中を向け歩き出す真琴。涙が出てくる。千昭が追いかけてきて言う。 

「未来で待ってる」

 真琴は答える。
「すぐ行く。走っていく」


【未来との約束を携えて】
 やはり絵を見ることなく去っていった千昭。
 功介は3回目の7月13日のときと同じこと(いきなり退学した千昭の唐突さへの言及)を言いながら、真琴とキャッチボールをしています。
 千昭がいなくなった野球。そこには果穂たち3人の女の子が加わっています。
 真琴はやりたいことが見つかった、けれども功介に詳しい内容は教えません。
 球を投げようと構える真琴。この映画冒頭と全く同じカットが重なって、物語は閉じます。
 長い長い7月13日が終わる。

そして観客はその先にいる

 以上、とくに後半はシーンごとに細かく追っていきました。まとめにあたって物語の構造をまとめると、おおよそ次のように言えるでしょう。
 千昭は時間(未来)を象徴した人物であり、真琴が彼に向き合うことは自分の未来に対する責任を負うということを意味しています。それは大人への第一歩。
 真琴はタイムリープで過去に戻るための走りではなく、自分の足で現在を走ることによって千昭という未来に追いつく。そして未来と約束をします。それはこれからの未来を変えるという決意でもある。
 真琴は「魔女」の和子とは違い、時間の流れに翻弄される、先の見えない人間です。でも、だからこそ、彼女は見えない先に向かって走っていくことができるのです。

 この映画は原作を溶かし込みながら、極めて今日的なテーマを疾走感のうちに伝えています。そのテーマは観念的な言葉に落とし込まれることなく、いわば言語を介さずに観客へと差し出されている。それが観客の胸を打つ。

 そしてこの映画の最後は、冒頭で真琴たち三人が野球をしている場面と全く同じカットです。でもそこにいる真琴は最初の彼女とは違います。違うというように、観客は認識する。
 未来との約束をした真琴は最初の彼女とは違う。そのように思う観客は、自分もまたさっきまでと違う時間の流れの中にいるように感じられる筈です。
 なぜなら観客は2006年の夏の今、この2006年7月13日の終焉を見ている。

走りの起点となる2006年7月13日 が反復され、最後の走りもこの日で閉じる。けれども観客には、物語の終わりの先も走っていく真琴を想像できる。
 そして観客は2006年7月15日以降のある日にこの物語を見ています。
 真琴が踏み出した未来に、私たちはいます。
 「時をかける少女」は、まさに今という時をかける映画なのです。

 この細田監督版映画「時をかける少女」の宣伝に、各著名人の応援コメントが載っています。どれも細田氏への期待がうかがえる熱いものです。「オタク女子研究 腐女子思想体系」の著者のコメントだけは激しく余計ですが。
 このコメントの中では押井守監督が最も正鵠を得ていると、観客は映画を見た後に理解することができるでしょう。彼はこの映画についてこう語っています。

 出来立ての熱いのを戴くのが一番。茹で過ぎに注意。

 意訳:お前ら、これを劇場でかかってるうちに見なさい。一刻も早く見なさい。

 本コラムも要約すると「早く観ろ!ハリーハリーハリーハリーハリィィイ!」ということで、でも読んでいるあなたは勿論もう観たに決まってるわけで、アハハこの評論の存在意義って何さってなわけです。でも良いんです。細田守監督の映画をこのように幸せな気持ちで評論できる日を迎えられて私は果報者です。
 以上。出来立て熱々のレビューをお送りいたしました。 (一部加筆修正)

(2006.07.17-07.21 あずまもくどう・おたく)


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